二度とない人生を⑭

石の趣きが解かり出すということは、物事がわかり出した一つの微標ともいえよう。というのは、この世俗的な相対界を多少は離れかけた一微表といってもよいからである。
「三十五歳前後、唯一の趣味は石であった。但し愛石ブームとなって石に値段がつけられるまでは―」と述懐しておられます。不如意の境遇においても最も慰藉を受けるのは物言わぬ「石」であり、名もなき野の花であるかもしれません。
教聖ペスタロッチも、晩年うちひしがれて、かのノイホーフの農場に帰ってきて、ポケットいっぱいに拾い続けたのは小石でありました。明治の義人・田中正造も、足尾銅山の公害運動に名利を超えて村民と共に闘い、遂に病に斃れましたが、唯一財産の頭陀袋にあったのは、法典と聖書、そして二、三の小石であったということです。世の中というのは賢愚・優劣・損得・美醜の相対界より脱しきれませんが、相対界を超えた世界、すなわち絶対的風光の世界にあることも、私達の忘れてはならぬことです。石はその絶対界の一微表と言えましょう。
石に特別な感動を覚えることはありませんが、 静かに眺めているうちに、何かを感じることがあってもいいのかもしれません。 あるはずのものがなくなっていたり、ないと思っていた場所にふとあったり―― そうした小さな出来事にも、何かしらの意味を感じる瞬間があります。
カレンダーの庭や風景の作品には、石が欠かせない存在として描かれています。 昔から人間は、石の中に何か超越的な力や永遠性を感じ取ってきたのでしょう。 考えてみれば、今手にしている石が、いったいいつ、どんな場所で生まれたのか―― その悠久の時間を思うと、ただ静かに頭が下がる思いになります。
若い頃には見過ごしていたものに、年を重ねるとふと心を寄せるようになる。 石を前に物思いにふける時間があってもよい年頃になったのだと感じます。 何も語らず、ただそこに在る石のように、静かな心で日々を見つめたいものです。
#心魂にひびく言葉 #森信三 #寺田一清








