教えの力、教えの光
教えの力、教えの光
他人、とくに自分の平生親しくしている同級生とか同僚などの、優れた点に気付くということは、結局その根本において、教えの力によらなければならぬでしょう。
つまり人間というものは、教えの光に照らされなければ、たとえ数年、否、時として十数年の永きにわたって交わっても、この点に対する深い自覚にはいたりがたいものであります。けだし教えの光に照らされるということは、つまり自分の醜さが分かり出すということだからです。【143】
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自分の醜さというものは、余裕がない時にとくに現れるものだといってもいいかと思います。
時間的にも精神的にも余裕がない。そんな時に特に感じます。
醜いというのはやはり人のことを気にするとき心が否定的になるような部分が多くなる。
あぁなぜにこのよな感情が起きるのかと感じます。
これは血なのか、育ちなのか。
先生の言われるように50年近くも生きてからではなかなか直しようもない部分かもしれません。
湧き上がるものをどうしようもないので出来れば表にでないように訓練するしかないのですが、それが難しいので毎日の訓練となるのでしょうね。
それには一日一回反省とか振り返るしかなく、ありがとうとか感謝を探すようなことをしなければならないということになります。
気品というのは実際なかなか手にはいらないものかもしれません。