第三十五夜 善悪の基準

儒教では「至善に止まる」(善の極致に達し、そこを離れない)といい、仏教では「衆善奉行」(いろいろな善を行う)という。
しかしその善というものが、いったいどうゆうものか確かでないから、人々は善を行おうと思っても実際にやっていることが人によってみな違っている。
もともと善とか悪とかいうものは、一円のものなんだな。
盗っ人仲間では、よく盗むのが善で、人に危害を加えててでも盗むさえすれば善とするだろう。ところが世の中の法律では、盗みは大悪として扱うんだ。その違いはこのように正反対だ。
がんらい天に善悪というものはなく、善悪は人間がきめたもので、人道上の定めなのさ。
たとえば草木になんで善悪があろうか。それは人間の都合から米を善とし莠を悪と定めたんだ。人の食物になるか、ならないかによって善悪を区別したのさ。天地自然にこんな区別があるもんか。莠は生えるのも早く育つのも早いから、天地生々の道に順応するという点で、むしろ善草といっても差し支えないだろう。
これに反し、米や麦は人力によってやっと生育できるものなんだから、天地生々の道にしたがうと言う点からみればとても遅いんで、むしろ悪草というっても差し支えないだろう。それにもかかわらず、ただ、人が食べられるか食べられないかという基準で善悪をわけてしまうのは、全く人の都合だけできめた、片寄った見方だと言わざるをえんな。ここんとこの道理をよくい知らなきゃいかんぞ。
上下貴賤はもちろんのこと、貸す者と借りる者、売る人と買う人、人を使う者と人に使われる者、という対立する立場の者に、いま話した、善悪の基準をあてはめて、よくよく考えてみることだ。
世の中のすべてのことがみな同じだよ。あちらに善あればこちらには悪であり、こちらに善ければ、あちらに悪い。生き物を殺して食うほうはよかろうが、食われるほうはとてもおそろしい。
そうはいっても人間は人体を養うために、生き物を食べざるをえまい。米、麦、蔬菜だからといって、みんあ生き物じゃないか。ワシはこの道理を考えて、
見渡せば遠き近きはなかりけり
おのれおのれが 住処にぞある
という歌を詠んだのさ。
けれども、これはいまの道理をいっただけなんだ。
人間は米食い虫なんだ。米食い虫のなかまの中で立てた道は、衣食住に役立つもの増殖することが善で、衣食住を損害するものを悪と定めている。人道でいっている善悪というのは、みんな、このことを基準にしていってるんだ。
このような基準で人のために便利なものはすべて善とし、人にとって不便なものは、すべて悪ときめたもんだから、天道とはまったく別なもんであるのはいうまでもない。しかしそれでは天道と全く違っているかというと、そうではない。人道というのは、天道にしたがいつつも違うところがあるという道理を説明しただけなんだ。(一一四)
善と悪は、人間が生み出した概念に過ぎない──この一節を読んで、道徳の根源について深く考えさせられた。人間がいなければ「善」も「悪」も存在せず、それは「米は善で、莠(雑草)は悪」というような、極めて人間中心の都合によって成り立っているにすぎない。
この視点に立てば、他者との対立や衝突、ましてや「正義」の名のもとに行われる争いは、すべて片側の視点によるものといえるだろう。人間社会の「善」は、米食い虫である私たちが、自らの生存に都合の良いものをそう呼んでいるに過ぎないのだ。
それでも私たちは、人道に沿って生きようとする。つまり、人間社会の秩序と安寧を保つために、都合のよい「善悪」に拠りながらも、その背後にある「天道」とのずれに目を向けていく。この姿勢こそが、人としての慎みであり、道を踏み外さぬための謙虚さなのだと感じた。
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