第二十七夜 家格や富は祖先のお蔭

下館候(下館藩主、いまの茨城県下館)の宝物倉が火事となり、大切な宝物の天国の剣が焼けてしまった。
役人が城下の富商中村という者に「こんなに焼けてしまったが当家第一の宝物なのでよく研いで白鞘にして倉に納めておこうと相談の上にきめたが、これをどう思うか」と話した。すると中村はその焼けた剣を見て「ごもっともなご意見のようですが、しかしそれは何の役にも立ちますまい。第一にたとえ焼けなくてもこのように細身では何の役ににもたちませんし、ましてこのように焼けてしまっては、いまさら研いでも何にも役立たんと思います。このままで仕舞っておくのがよろしかろうと存じます」と答えた。この話を聞いてワシはことさら強い調子で言ってやった。
「お前さんは大家の子孫に生まれ、祖先のお蔭で格式を与えられ、人の上にたって尊敬されている。そのお前さんが今のようなことを口にするのはとんでもない了見違いだよ。お前さんが人から尊敬されるのは太平の世であるからだ。今は平和だから剣が役に立つとか立たぬとか論ずるときではない。それよりも、あんた自身反省してみなさい。自分がいま役に立つ人間であるかどうか。
あんたはこの天国の焼けた刀と同じで実は何の役にも立たないのだ。ただ祖先のお蔭と家柄と格式を相続しているので用立つ人間のように思われ人々から尊敬されているんだ。焼け刀でも細身でも大切な宝物だと尊ぶのは、世が平和であるお蔭で、この剣の幸せである。あんたも中村さんといって人々が尊敬するのも今が太平の世であり、祖先のお蔭によるもんだんだ。もし役に立つか、立たぬかで論ずるなら、あんたなんか捨ててしまってもよい人間なんだ。たとえ用に立たなくとも当の先祖伝来の大切な宝物で古くからある物なら、これを大切にするということは、太平の今日あたり前のことである。
ワシはこの剣のために言っているのではない。あんたのために言ってるんだからよくよく頭を冷やして考えてみることだな。
昔、水戸の殿様が寺の釣鐘を取り上げて大砲をつくったことがあった。ワシはこの時も、この処置が悪いわけではないが、まだ太平の時代からこのようなことをするのは早すぎる。太平の時代には鐘や手水鉢をつくって寺に納め太平を祈らせるほうがよい。もし戦争となればただちにこれを取り上げて大砲にしても誰も文句を言わないだろう。神社も寺も喜んで供出するだろうよ。このようにして国は保てるもんだ。
敵を見て大砲をつくるのは、いわゆる盗人を捕らえてから縄をなうようなものだという人もあろう。しかしそうではない。通常の敵を防ぐだけなら今日の備えで十分なんだから敵が容易でないのを見てから領内の鐘を取り上げて大砲を鋳ても、なんら遅すぎるということはない。
もしそれだけの時間的余裕がないようなことだったら、大砲があってもきっと敵を防ぐことはできないだろうと言ったことがあったんだ。
太平の時代に何で乱世のような議論を出す必要があるんだ。このような役に立たない焼けた刀をも宝として扱い、まして役に立つ剣はなおさら大切にしておくようにする。そうすれば自然に良い剣も出てくるだろう。そういうわけだからこの焼身の刀もよく研ぎあげて白鞘にし、元のように袱紗に包んで二重の箱にしまって重宝の扱いをしなさい。これはお前さんに帯刀を許し、格式を与えるのと同じことなんだ。ここんと十分にわきまえるようにせねばいかんな」と。
中村は平身低頭してあやまったな。これ9月のことであった。翌朝、中村は発句をつくってある者に見せた。
じりじりと照りつけられて実る秋
というもので、これをその者がワシに見せたので、ワシはこれを見てとても嬉しくなってこう言ったんだ。
「ワシは昨夜中村を無遠慮なく強く戒めてやった。きっと不愉快に思ったことだろう。怒りきれなかったろうと内心気がかりだったが、もともと中村家はお家柄で大家だったので、へつらう連中ばかりで、本人も知らず知らずのうちに増長慢心してついに家を保持することすらできなくなってしまうのではないかと心配して、やむをえず厳しく戒めてやったのだ。ところが怒るどころか不快の念すらもたず、何にもこだわらない、おだやかな心でこの句をつくったとは、中村は案外に度量が大きく立派な人物だということがよくわかった。これなら大家の主人として恥ずかしくない。家を維持していくことはできる。
古語に『我を非として当たってくる者は我が師なり』とある。また古代中国の名君兎は『良い忠告に対して拝んでこれを受け止めた』という。お前さんたちも、このことを肝に銘じて忘れぬようにせにゃあかんぞ。金持ちの家の主人は何を言っても『ごもっとも』とおべっかを使う者たちばかりに囲まれるので、砥石で磨かれるように磨いてくれる者がいないから高慢になっていくんだ。
たとえばここに正宗の名刀があるとしても、もし研ぐことも磨くこともせず、錆びついた物と一緒に置いておけばたちまち腐って紙ですら切れなくなってしまうだろう。それと同じで三味線ひきや太鼓もちなどのような『それもごもっとも、これもごもっとも』とこびへつらう連中ばかりにかこまれて喜んで暮らし、忠告してくれる者が一人もいないというようなことでは、ほんとうにあぶないと言わざるをえんな」。(三三)
焼けた剣をどう扱うか――この一件に、宝とは何か、人の価値とは何かが凝縮されている。
焼けて役に立たぬ剣をなおも宝として大切にするという話に対し、ある商人が「役に立たぬなら納める必要はない」と答える。これに対し翁は「そもそもお前自身が役に立っているか」と鋭く切り返す。現代においても、家柄や肩書、過去の栄光だけで立っている人間は多い。しかし、そうした立場は平和という文脈の中でようやく保たれているものにすぎない。太平の世にあってこそ、名誉や格式は活きる。
また、どれほど立派な刀も、研がれず放置されれば紙一枚すら切れなくなる。人も同じで、真に力のある者は忠告され、磨かれ、鍛えられてこそ価値を保つ。だからこそ、忠言を素直に受けとめた中村が詠んだ一句「じりじりと照りつけられて実る秋」に、翁はその成長の兆しを見出した。
人の価値とは、使えるか否かではなく、「どう育て、どう扱うか」で決まる。平和の中でこそ、過去の遺産や忠告の価値は問われる。今こそ、己が錆びついていないか、自問しなければならない。
焼けた剣をどう扱うか――この一件に、宝とは何か、人の価値とは何かが凝縮されている。
焼けて役に立たぬ剣をなおも宝として大切にするという話に対し、ある商人が「役に立たぬなら納める必要はない」と答える。これに対し翁は「そもそもお前自身が役に立っているか」と鋭く切り返す。現代においても、家柄や肩書、過去の栄光だけで立っている人間は多い。しかし、そうした立場は平和という文脈の中でようやく保たれているものにすぎない。太平の世にあってこそ、名誉や格式は活きる。
また、どれほど立派な刀も、研がれず放置されれば紙一枚すら切れなくなる。人も同じで、真に力のある者は忠告され、磨かれ、鍛えられてこそ価値を保つ。だからこそ、忠言を素直に受けとめた中村が詠んだ一句「じりじりと照りつけられて実る秋」に、翁はその成長の兆しを見出した。
人の価値とは、使えるか否かではなく、「どう育て、どう扱うか」で決まる。平和の中でこそ、過去の遺産や忠告の価値は問われる。今こそ、己が錆びついていないか、自問しなければならない。
今日もはここまでです。
ありがとうございます。
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