第二十五夜 貧富は過去の勤惰が原因

貧乏になったり、金持ちになったりするのは偶然のことではないんだ。
金持ちも金持ちになる原因があり、貧乏も貧乏になる原因というものがあるんだな。人々は財貨というものは自然に富者のところに集まるものだと思っているようだが、実はそうではない。財貨というのは、節倹な者とよく励む者のところへ集まるものなんだよ。
たとえば百円の財産の者が百円で生活していけば富みもしないし、貧乏にもならないんだ。それを百円の財産の者が八十円か七十円で生活していけば富は残って、財産は必ずたまるんだ。これと反対に百円の財産の者が百二十円とか百三十円の生活をしてゆけば財産は減り、必ず貧乏になるんだ。ただ、分外に出た生活をするか、分内で切りつめた生活をするかの違いがあるだけなんだ。ある歌に、
ありといえばありとや人の思うらん
呼べば答うる 山彦の声
といっているように、世の人はいま財産があっても、そのある原因を知らないんだな。
なしといえばなしとや人の思うらん
呼べば答うる 山彦の声
世の人は財産がない原因を知らないでいる。今ある物は今になくなり、今ない物も今にあるようになり。たとえば今あった銭がなくなったのは、物を買ったからなんで、今までなかった銭が、今あるといのは働いたからなんだよ。
縄を一房なえば五厘手に入り、一日働けば日当十銭にの収入となる。この手に入った十銭も酒を呑めばすぐになくなるさ。これはきまりきったことだ。
『中庸』に、「誠なればすなわち明らかなり、明らかなればすなわち誠なり」と言っている。縄一房なえば五厘となり、五厘やれば縄一房手に入る。貧富のもとはすべて自分にある。これは明々白々の事実なんだな。(一二一)
富や貧は偶然の産物ではなく、必ずその原因がある。節倹を守り、よく働く者のもとに財は集まり、浪費と怠惰の先には貧がある。これは、厳しくも希望ある法則だ。
「百円の者が百二十円を使えば必ず貧しくなり、七十円で暮らせば必ず富む」。このように明快な原理を聞くと、現代の経済問題もまた、基本の積み重ねに立ち返る必要があるように思う。
人は、今ある富を「運」や「才能」のせいにし、今ない富を「不運」や「環境」のせいにしてしまいがちだ。だが、富が増えたのも減ったのも、原因は常に自分の行いにある。
これは経済に限らない。信頼、人望、実績――あらゆる「蓄積」は、原因を内に求めなければ本当の持続にはつながらない。
「誠あれば明らかとなり、明らかになれば誠となる」。原因に目を向け、日々の選択を律する者こそ、真の富者なのだろう。
今日もはここまでです。
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