第二十八夜 一草から万里を解く

この世のすべてのことは、みんな一つの道理によって貫かれてるんだ。一つに草を例にひいてこの道理を説明してみよう。
儒教の書物(中庸)に「この本は、はじめは一つの道理について説明し、中ごろでは広く各方面にわたって論じ、終わりに再び一理にまとめ上げている。広く述べている部分では全宇宙にわたり、これを巻き込むと人目にたたぬように収まりかくれてしまう。その味わいはまことに無限である」とある。
いま一本の草にたとえて、この意味を読み取ってみよう。「この草、はじめは一粒の種である。蒔けば根や葉が現れ、やがて実ればまた一粒の種となる。この種を蒔けば全世界に繁茂し、種のまま倉にしまっておけば一粒の種にすぎず、人目につかない。これを食べ、かみしめてみれば、その味わいは無限である」。
また仏教の言葉に「本来東西なし、いずれのところにか南北ある。迷うがゆえに三界城、悟るがゆえに十方空」というのがある。さてまた、一草でこれをたとえてみようか。
「本来根葉なし、いずれのところにか根葉ある。植うるが故に根葉の草。実るが故に根葉空し」といった具合じゃな。ワハハハ・・・。(六九)
草一本にも、この世のすべての道理が宿っている。
種は一粒。そこから芽を出し、根を張り、葉を伸ばし、やがてまた一粒の種へと帰る。この循環は、自然の営みであると同時に、人生、経営、思想すべてに通じる「道」そのものである。物事は一つの本質から広がり、再びその本質に帰っていく。これは儒教が説く「中庸」の構造そのものであり、また仏教における「迷いと悟り」の構図にも重なる。
草という「かたち」にとらわれれば、根や葉や実の有無に心を奪われる。だが、そもそも草とは何かと問えば、それは種という一点に還元される。そしてその種には、世界を覆う力が秘められている。芽を出すも、出さぬも、扱い方次第。かみしめて味わえば、そこに無限の味がある。
私たちもまた、自らの内に「一粒の種」を宿している。それをどう育て、どう生かすか。草の姿に、自己の在り方を重ねて省みたい。
今日もはここまでです。
ありがとうございます。
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