第十八夜 人は結局天には勝てない

大和田山城(茨城県青木村の神主)が楠氏の旗の文句だといって次の文字を写してきて、その真偽をたずねた。
【楠公旗文】
非 は理に勝つことあたわず
理 は法に勝つことあたわず
法 は権に勝つことあたわず
権 は天に勝つことあたわず
天 は明らかにして私なし
ワシは次のように答えてやった。
理・法・権というのは世間でよく言われることだ。しかし「非理法権天」というのは珍しい。けれど世の中はまさにこの文のとおりだ。どんな権力でも天には決して勝つことはできない。たとえば、理があてっも頼みにはならない。権力に押し切られてしまうことがあるもんで、時には理をまげてでも法を立てることだってある。また、権をもって法にも圧することすらできる。しかしながら、権力者といっても、天があるのをどうすることもできないんだ。俗歌に「箱根八里は馬でも越すが、馬で越されぬ大井川」というのがある。そのように、人と人との間のことは、智力とか、弁舌とか、威権で通れば通れるかもしれぬが、天だけはそうはいかぬ。智力、弁舌、威権をもってしても決して通ることはできないんだ。
この理を仏教では「無門関」といっている。だから平氏も源氏も長くは続かず、織田家も豊臣氏も二代とは続かなかった。まさに恐るべきは天なんだ。人の勤むべきは天理にしたがった行いである。
世の強欲者は、この天理ということを知らず、どこまでも際限なく欲をかいて、身代を大きくしようとして智を振る腕を振うけれど、天理に逆らう行いは手違いを生じてうまくいかない。
また、権力者が権謀威力を頼んでもっぱら利とはかっても、同様に失敗が重なって志を遂げることはできないんだ。みな天というものがあるからだ。
だから「大学」には「止まる所を知れ」と教えている。とどまる所を知れば、だんだんに進むということができるようになる。とどまる所を知らないと必ず退歩を免れない。だんだん退歩すればついに滅亡してしまう。
また、「天をあきらかにして私なし」といっている。私がなければ「まこと」だな。
「中庸」に「誠なれば明らかなり、明らかなれば誠なり、これを誠にするは人の道なり」とあって、「これを誠にする」とは「私を去る」ことだ。つまり、おのれに克つことなんだ。べつにむずかしいことではなく、よく道理にかなっている。なおこれが楠公のものかどうかという真偽についてはワシは知らんぞ。(一四七)
「非理法権天」――初めて目にしたとき、その言葉の並びに不思議な静けさを感じました。 理屈が通らぬとき、法に頼り、法が通らぬとき、権にすがる。それでも、最後には「天」にかなうものはないというこの順序。私たちの営みがどれほど巧妙で力強くとも、天(あまつみことのり)には及ばない。そんな当たり前のことが、ふと胸に落ちるのです。
現実には、理よりも力が通ることもある。理想だけではうまくいかず、法や権力に助けられる場面もある。しかし、それらを超えたところに、私心なき「天」があることを忘れてはならない――この文は、そう教えてくれているように思います。
進むことに夢中になるあまり、どこまで行けばよいのか、どこで留まるべきかを見失いがちです。でも、天を仰ぐまなざしさえあれば、自ずと足を止めるべきところが見えてくる。 どこまでも欲し、進むのではなく、どこかで「とどまる」こと。それが、かえって安らかな歩みに通じるのだと感じました。
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より時間効率を上げるために学ぶ必要があります。
今日もはここまでです。
ありがとうございます。
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