第四十三夜 自我を捨て道理を悟る

心が狭く、ちぢこまっていると真の道理を見抜くことはできないんだ。
世界は広いから心もつねに広くもたねばいけないな。しかしその広い世界も、おのれといい、我というものをその中に置いて見るようになると、世界の道理は、そのおのれに隔てられて、見えているところは自分のほうの半分しか見えなくなってします。
おのれというもので半分だけ見ていると、借りた物は返さないほうが都合がよいし、人のものを盗むほうが都合がよいことになってしまうが、おのれというものを取り払って広い心になって見る時は、借りた物は返さなければならぬという道理がはっきり見えてきて、盗むということは悪いことだということも明らかにわかるんだ。
だから、おのれという私物をとり捨てる工夫が第一だ。
儒教でも仏教でも、このおのれの捨て方を教えるのが最も主なことになってるんだよ。『論語』で「己に克ちて礼に復る」と教えてるのも、仏教で見性といったり、悟道や転迷といったりしてるにも皆、このおのれを捨て去る修行なんだ。
おのれを取り捨てることができさえすれば万事が不生、不滅、不増、不滅の道理もまた明らかに見えてくるな。このように明白な世界だが、このおのれを中間に置いて、彼と是と隔てることになれば、たちまち、損失、損益、増減、生滅などいろいろなかず限りない境界があらわれてきて、恐ろしいことになるんだけれど、これまた仕方ないことだな。
たとえば豆が草の時は、豆の実を見ることができないし、豆が実になる時は豆の草を見ることができない、というようなこの世の有り様なんだから、万物の霊長である人間だって、これは免れないことなんだ。
この免れ難いことを免れることを悟りといい、免れないのを迷いというんだ。ワシがたわむれに詠んだ歌に、
こくもるつの不食となる味も香も
草より出でて 草になるまで
百草の根も葉も枝も花も実も
種より出でて 種になるまで
というのがある。今いった道理を考えるための参考だよ、ワハハハ・・・。(続四二)
心が狭く、自己中心であると、世界の半分しか見えなくなる。借りた物を返さないほうが得、人の物を奪うほうが楽——そんな歪んだ理屈さえ正当化してしまう。しかし「おのれ」を取り払えば、借りた物は返すべきであり、盗みは悪であるという当たり前の道理が見えてくる。
儒教が「己に克ちて礼に復る」と教え、仏教が「見性」「悟道」と説くのも、結局はこの「おのれを捨てる」修行に他ならない。自分を基準にしている限り、損得、増減、生滅といった限りない境界に囚われる。だが、その「おのれ」を超えたとき、すべては一つの円環であり、無生無滅の理が明らかになる。
草も豆も、芽吹くときには実が見えず、実るときには草が見えない。人間も同じように、今見えている世界がすべてではないと知ることが、悟りへの第一歩なのだろう。
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