第十四夜 悟道と人道の違い

ある人がワシのところに来て、大に道を論じたが、どうも話の筋道が通らない。そこでワシはこう言ってやったよ。
あんたの説は、悟道と人道をごっちゃにしてるんで、わからなくなってしまうんだ。悟道の立場から論ずるのか、人道の立場から論ずるのか、はっきりしていないからいけないのさ。悟道と人道をごっちゃにして感が手はだめんだ。なぜかというと、人道がよしとするところは、悟道ではいわゆる三界城(人間の抜け出すことのできない欲界、色界、無色界)の世界があるから、脱却しなければならに境地とされている。悟道を主張すれば人道がさげすまれることになるんだ。
悟道と人道とは、天地雲泥の差があるんだ。だから、まず自分の立場をきめてから論ずるべきであって、立場が定まらなければ、目盛りのない秤ではかるようなもので、一日じゅう議論してもその当否はわからないよ。
いったい悟道というものは、たとえば今年は不作だから仕方ないと、まだ耕作にかからぬうちから諦めてしまっているようなものだ。不作だから耕作をやめてしまおうというのは、人道ではないんだ。つまり田畑はいったん開拓しても、また、荒れてしますのでが自然の道だ、とみるのが悟道だが、荒れるから開拓しないというおは人道ではない。川に近い田畑は、洪水のとき流失してしまうことを、洪水のないときから知っているのが悟道さ。しかしだからといって、川に近い田畑は、耕しもしない、肥料もやらないでおくというのは人道ではないな。つまり悟道はただ自然のあり方を考えているだけで、人道というのは人力をつくしてやれるとこまでやる、ということだよ。
「論語」に「父母につかえて、父母の誤りを見つけだしたときは、おだやかにいさめて、これ以上取り上げられないときは、父母を敬して、父母の意志を反せずに、心の中では憂いても恨みを抱いたりしない」とある。この言葉は、人道の極致を尽くしているなあ。
発句(俳句)に「いざらば雪見にころぶ所まで」といっているのも、同じ心境を詠ったもんだ。だからワシはいつもこう言ってやるんだよ。
親の看病をして「もう助からない」などと思うようでは、親子の至情を尽くすとはいえない、すでに死んで身体が冷たくなっても、まだ何とか生き返り全快する方法はないかと思うくらいでないと、尽くす、とはいえないんだなあ、と。
こういうわけだから、悟道と人道とは混同しちゃいけないんだぞ。
悟道というのは自然といくところを冷静に見透すもので、人道というのは最後まで人力の限りを尽くして努力することなんだよ。
いったい人間の倫理道徳というのは、仏教でいう煩悩の多い三界城裏の世界をどう生きぬいていくかということなんだから、悟ってしまって、この世のすべては幻だと十方空を唱えているようなことでは、人道は滅び、世の発展は期待できなくなってしまうじゃないか。
高僧を尊び娼妓をいやしむのは迷いさ。といって、このよな迷いがあるからこそ道徳が必要となり、人道が成り立つんだ。だから悟道を説くところは人間の道徳には何の駅もないんだ。もっとも悟道でなければ、執着を脱することはできまいなあ。ここに悟道の妙味があるんだよ。
ところで、人道というもんは、たとえば縄のようなもんで、よくヨリが掛かるのを良しとする。悟道のほうは、このヨリを戻すようなもんだ。人道では家を造る。そのために丸太を削って角材とし、曲がったものを真っすぐにし、長い木を切って短くし、短いのを継いで長くし、穴をあけて溝を掘り、家を造る。これはつまり、迷いゆえの、三界城内、ナマの人間社会の仕事だな。それを人間はほんらい家などないものだ、と悟って家を壊してしまうのが悟道だよ。壊して捨ててしますから十方空になってしますんだな。
そうはいうものの、迷いといい、悟りとうのは、まだ徹底したものではないんだ。本源を極めれば、、迷いも悟りもないんだよ。迷いといえば悟りと言わざるをえないし、悟りといえば迷いを言わざるをえないじゃないか。本体は、迷いも悟りも半面だけ見たにすぎないのさ。迷いと悟りで、ひとつの円の中に融合するものなんだ。
たとえば、草木は一粒の種から根を出して、土中の潤いを吸い、枝葉を出して大空の空気を吸って花を開き実を結ぶ。これは種から見れば迷いともいえよう。だがいったん秋風にあえば枯れ果てて、本来の種にかえる。春の暖かい日ざしにあえば、たちまち種から枝葉果実を発生させる。それなら種になったのが迷いか、草になったのが迷いなのか。草になったのが本体か、種になったのが本体か。このことをよく考えると生ずるといっても生ずるのではなく、枯れるといっても枯れるのではない。だから無常も無常ではなく、有常も有常ではない。みんあ動いて止むことのない世界にあるものだからだよ。ワシ歌に、
咲けば散り散ればまた咲く年ごとに
ながめつくせぬ 花のいろいろ
というのがあるんだ。アハハハハ。(七〇)
人は時に、あたかも世界の理を語るかのように「道」を論ずる。しかし、その論が混濁するのは、自らの立ち位置を定めないからである。二宮翁の言うとおり、悟道と人道は根本において異なる。前者は天のまま、自然を観じ、無為に従う。後者は人の手を尽くし、秩序を築かんとする。まさに天地雲泥の隔たりがある。
悟道においては、不作ならば仕方なしと受け入れる。洪水に流されるなら、それもまた道理とする。しかし人道においては、なおも耕し、備え、救いの手を尽くす。そこに人間の努力と尊厳がある。
この違いは、単なる思想の対立ではない。それは、私たちの日常に深く根ざす二つの見方の交錯だ。親を看取るという行為においても、「助からない」と悟ることは悟道であり、それでもなお温もりを求めて尽くすのが人道である。そこにこそ、「人間らしさ」がある。
翁はまた、「迷い」と「悟り」も、円環の中にある一つの現象と見る。迷いがあるから悟りがあり、悟りがあるから迷いが生じる。どちらか一方に偏れば、世界は片目で見るようなものとなる。
草木が種から芽を出し、やがて枯れて種に戻るように、すべては移ろいゆく流れの中にある。ゆえに、有常も無常も、どちらも固定されることのない「動き」の一相にすぎぬ。
人道と悟道。二つの道は、ときに対立し、ときに溶け合う。重要なのは、いずれかに偏ることなく、それぞれの場に応じて「今なすべきこと」を見極める眼である。
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これは利用できそうなことが書いてありそうです。
より時間効率を上げるために学ぶ必要があります。
今日もはここまでです。
ありがとうございます。
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