第十五夜 老子の道

ある人が、「老子」に「道の道とすべきは常に道にあらず、云々」とあるのは、どんな意味かとたずねたので、ワシはこう答えてやった。
老子が「常」と言ったのは、天然自然で永久不変のものを指して言っているんだな。
ところが聖人の道というのは、人道をもとにしているんで、人道というのは自然にもとづくといっても自然と違うものなんだ。なぜかといえば人は米麦を食べるが、この米麦は自然にできたものではない。
つまり田や畑で人が作らなければできないものなんだ。その田や畑も自然ではなく、人の開拓によってできたものなんだ。その田を開拓するのは堤を築き、川を堰で仕切り、水路を掘り、畦をつくってはじめて水田となるんだよ。もともと自然にもとづくものだが、自然そのものではなくて、人がつくったものだということは明らかだな。
すべて人道というのは、このようなもんだ。だからこそ法律をつくり、規則を定め、礼楽や刑政を整え、命令や細則をいった、わずらわしいことを並べたて、それではじめて国の安寧秩序が成り立っていくんだよ。
これはちょうど、米を食うために堤を築き、堰をつくり、水路を掘り立てて水田をつくるのと同じなんだ。こういうことを聖人の道だと尊ぶのは、米を食べたいという米食仲間の人間社会のことなんだな。
老子はこれを見て、「道の道とすべきは常に道あらず」と言ったんだ。これは「川の川のすべきは常に川にあらず」と言うのと同じなんだよ。
堤を築き、堰を張り、水門を立てて引いてきた川は、人作の川で、自然の常の川ではないから、大雨が降ると、みんな破れてしまうよ、と天然自然の理屈で言ったんだな。理屈は確かにそのとおりなんだが、これはワシの言う人道とはおおいに違うんだ。
人道では、人作の川なのだから年々歳々、普請をし手入れをして、大洪水があっても壊れないように力を尽くし、もし流失したときは、すぐ再興にかかって元のとおり速やかに修復しよう、というのが人道なんだよ。もともと人が築いた堤なんだから崩れるのが当然、と老子は言うが、これは言わずとしれたことじゃないか。老子は、自然のままがよい、これが聖人の道だと言っているのを、悪い、とあえて言う気はないさ。しかしワシの言う人道にとっては、こういう言い方は大害があるのさ。
老子流にいえば、人は生まれたんだから死ぬのは当たり前で、それを嘆くのは馬鹿げたことだ、というに等しい。人道はそれと違って、他人の死を耳にしたら、お気の毒にとともに嘆くのが道なんだな。まして親子兄弟親戚ではなおさらのことさ。これらのことを推しはかれば、わかることだろうな。(五三)
「道の道とすべきは、常に道にあらず」。老子のこの言葉には、自然のままが一番だという考えがにじんでいます。でも、二宮翁はそこにあえて一石を投じます。
人の暮らしは、自然にそのまま身をゆだねていては立ちゆきません。米や麦は、誰かが田畑をつくり、種をまき、水を引いて育ててはじめて実るものです。つまり、人の道というのは、自然をもとにしながらも、手をかけ、知恵をしぼり、工夫して成り立っているものなんですね。
堤防や水路をつくって川を引くのも同じ。老子は、それは本来の自然ではない、だから壊れるのは当たり前だと言います。でも、だからといって手をこまねいていては、暮らしは守れません。壊れたらまた直す。何度でも立て直す。それが人道の姿だ、と翁は語ります。
自然の理(ことわり)に従うだけでは、人の心はおさまりません。誰かが亡くなったとき、「死ぬのが自然だ」と言い切るのではなく、涙し、惜しむ。そういう気持ちが、人としての道をつくっているのだと思います。
自然をよしとする悟道も、もちろん大切です。でも、そこにとどまらず、目の前の現実と向き合いながら、できるかぎりの手を尽くしていく――その姿勢こそが、人が人らしく生きるための道ではないでしょうか。
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今日もはここまでです。
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