第十六夜 殺生を戒めても

日光温泉へ行ったとき、ある者がワシに向かって、
「日光じゃ他国の魚鳥を食べることは禁じているというのに、地元の日光山中で魚鳥を殺すことは禁じてない。ふつうは神社や寺のあるところでは、境内に近い沼地、山林で魚鳥を殺すのを禁じているものだ。これは料理場を遠ざけるという意味で、耳目の及ぶところで生き物を殺すことを嫌うからなんだ。
ところが日光温泉のきまりはこれと反対になっている。日光山中の殺生を禁じないで、よその魚鳥を持ち込んで食べるのを禁じ、これは山神の意志によるものだという。こんな変な理屈はない」と言った。そこでワシは説明してやったんだ。
「仏教では生き物を殺すのを戒めているが、これは実に不都合なものだな。天地は死物じゃないし、万物も死物じゃない。このような生きた世界に生まれて、一切殺してはいけないということになったら、人間はどうして生きていくことができるんだ。生きていけるのは生き物を食べているからなんだ。死んだものを食べるだけでどうして生きていけよう。
人はみな、鳥、けだもの、虫、魚などを殺すことを殺生というが、草木、果物、穀物を殺すのも殺生となることを知らないんだ。動いたり飛んだりする動物だけを生きているといって、草木や禾穀を煮ることは殺生じゃないというんか。菜食の修行者といえども、秋山の落ち葉だけを食べて生きていけるもんかね。
だから仏教では殺生戒というが、ただ自分と類のちかいものを殺すことを戒めて、類を異にするものを殺すことを禁じないというのも不都合なものだ。つまり殺生戒ではなくて殺類戒とでもいうべきだな。人道というのは人間に都合よく立てたものだから、とことんまで追究していくと、どのみち、すべてこの日光のきまりのようになるんであって、おかしいことはないよ。
ところで日光温泉は深山にあり、深山には古い昔からのしきたりが残っているものだが、この山神の意志というのも地元民に都合よく考えられた昔のしきたりが残されているのだろうよ。深山にはそもそも食べ物が少ないので、交通の便がよく、食料調達も楽な所と違うから、食料を得ることを優先し、それを善としたからこういうきまいとなったので、とくに合点がいかないということでもないわな。」(二一二)
自然のままに身をまかせるべきか、それとも人の知恵と力で働きかけるべきか――。老子の「道」の考え方をきっかけに、二宮翁はこう問いかけます。
たしかに、自然の摂理に逆らうことなく生きることは、大きな真理のように見えます。しかし、人の暮らしはそれだけでは成り立ちません。水田をつくるには川を堰き、田畑を拓かなければなりませんし、生きていくには草木も魚もいただかねばなりません。
仏教では殺生を戒めますが、人が生きている限り、完全に殺生を避けることはできません。草も米も、煮れば命を断つことになります。人間だけが特別に「殺してはいけない」命を選び取ることなど、本来できないはずです。
それでも、私たちは日々、選びながら生きている。それは人の都合かもしれませんが、その都合をどう扱うかに「人道」の意味があるのではないでしょうか。
つまり、人道とは「自然をねじ伏せる力」ではなく、「自然の中で、どうにか折り合いをつけながら生きていく工夫」であり、「人としての節度と誠実」を積み重ねていく営みだと思います。
だからこそ、人道は、壊れたらまた直す、失ってもまた始める――そんな「諦めない心」と一体になっている。これは、悟りの境地とはまた違う、人としての粘り強い美しさです。
深山で暮らす人々が、身近な自然を頼りに生きる知恵を残してきたように、私たちもそれぞれの現実に向き合いながら、自分なりの「道」を歩むしかないのだと思います。
自然と共にあっても、人は自然そのものにはなれません。けれど、その限界を知りながら、今日をまっとうに生きようとする姿に、人の道の尊さがあるのでしょう。
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より時間効率を上げるために学ぶ必要があります。
今日もはここまでです。
ありがとうございます。
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