第三十四夜 善と悪

善悪の理屈ははなはだむずかしいもんだ。がんらいは、善と悪というのはないんだよ。
善をいうから他方に悪というのができてくるんだ。善悪は人間の考えからできたもんで、人道上のもんなんだ。だから人間がいなければ善も悪もなかったんだなあ。人間が現れて、そのあとで善悪というのができ上ったんだ。
人間は荒れ地を開くことを善とし、田畑を荒らすのを悪とする。しかし、猪や鹿から言わせれば開拓することが悪で、荒らすのは善だというだろうよ。法律で盗むことは悪だが、いずれが悪か理屈で説明するのはむずかしい。
一番わかりやすく説明できるのは遠近の場合だ。遠近も善悪も理屈は同じだからね。
たとえば二本の杭をつくり一本に遠を書き、もう一本に近と書く。この二本の杭を人に渡して、この杭をお前のだから遠い所と近いところに立てなさいと言いつければ、すぐにわかるだろう。ワシの歌に、
見渡せば遠き近きはなかりけり
おのれおのれが 住処にぞある
というのがある。この歌を「善しも悪しきもなかりけり」とすれば、考え方のことだから、はっきりわからないのが、遠近となると心の問題でなくなるのではっきりしてくる。
工事の測量をする場合に曲がりぐあいを見るのには、あまり目を近づけると、よくわからない。またあまり遠すぎても人の視力は及ばないので見えない。古語に「遠き山 木なし、遠き海 波なし」というのと同じなんだ。
そこでわが身に関係の薄い遠近の例にあげて説明したんだが。遠近というのは自分のいる所がまずきまって、そこから遠近を論ずることになる。いる所がきまらなければ遠近といえないのだ。
大阪を遠いというのは関東の人だろうし、関東を遠いというなら上方の人だろう。禍福、吉凶、是非、得失はみな遠近と同じなんだ。禍福も一つ、善悪も一つ、得失も一つだ。もともと一つのものの半分を善とすれば、あと半分は必ず悪である。
ところがそのあと半分にも悪のないことを人は願う。しかしそれは無理というもんだよ。人が生まれるのは喜びは堪えないが、その半分いずれは死ななければならないという悲しみはついてははなれることはないのだ。咲いた花が必ず散り、生えた草が必ず枯れるのと同じことなんだよ。
涅槃経の中にこういうたとえ話がある。
ある人の家にすこぶる奇麗な女性がやってきた。主人がどなた様かなと聞くと「われは功徳天なるぞ、わが行くとこよきこと、幸せなること限りなく起こるぞ」と言う。
主人は大喜びで奧へ招き入れた。この女性が、つけ加えて言うには「あとからついてくるもう一人の女性がいる。必ずこれも招き入れなさい」と。主人は承知したところ、やがて一人の女性がやってきた。見ると顔かたちがとても醜くてきたならしい。
「どなたかな」と聞くと「われは黒闇天であるぞ、わが行くところ不幸、災害限りなく起こるぞ」と言う。
主人は大いに怒って「とっと去れ」と怒鳴ると「前にきた功徳天はわが姉である。二人は少しも離れているわけにいかない。姉をこの家に置くならわれも置きなさい。われに去れというなら姉もでて行かせよ」というので主人はしばらく考えてから、二人とも帰れと言い、二人は連れ立って出ていったということだ。
これは生まれた者は必ず死に、会った者は必ず別れるということのたとえなんだ。死生はもちろんのこと、禍福、吉凶、得失みな同じことだ。もともと禍と福は同体であって一つのもんだ。吉凶も兄弟で一つなんだ。すべてこのような具合になってるんだな。
通勤する時は近くてよかったといい、火事の場合は遠くてよかったというではないか。これでよくわかっただろう。(二六)
善悪とは、遠近と同じく、見る立場によって変わる。猪や鹿にとっての「善」は、人間の「悪」かもしれない。私たちは常に、自分の位置から物事を判断しているに過ぎないのだ。
この教えを読んで、経営の意思決定の難しさを改めて感じた。正義を主張すればするほど、反対側には「悪」と呼ばれるものが生まれる。しかし、いずれも同じ一つの現象の両側面なのかもしれない。
功徳天と黒闇天の譬えもまた深い。成功や繁栄があれば、必ずその陰には困難や試練も伴う。だからこそ、私たちは光ばかりを追いかけず、影とともに生きる心構えが必要なのだろう。
善悪を絶対視せず、あらゆる出来事を一つの循環の中に見る視点を持てば、判断はより柔らかく、しなやかになる。経営に限らず、人としてもそうありたいと感じた。
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