卑屈と功利打算
卑屈と功利打算
そもそも私達が、一つの徳目を真に徹底的に履み行わんがためには、結局根本において、人格の転換を必要とすると言えましょう。たとえば人が傲慢に振舞うということは、畢竟するに、その人が調子に乗っているということであり、したがってそれは、一見いかにもえらそうにしていながら、実は人間のお目出たい何よりの証拠であります。つまり自分のそうした態度が、心ある人から見られて、いかに滑稽であるかということに気付かない愚かさであります。同時にまた卑屈ということは、一面からは、その人間のずるさの証拠とも言えましょう。何となれば、人間の卑屈の裏には、必ず功利打算の念が潜んでいると言ってよいからです。【207】
謙遜と卑屈というところですが、実にこれは気にかけていなければなりませんね。
たぶん自分の考えていることが正しいと思うような時にも傲慢ということは出るような気がします。
そう考えると、なんとも自分もお目出たい部分が多いような気がします。
傲慢な自分をいかにセーブするか、これは毎日の反省しかないと思いますね。
伝記を読めと教授が言うので、教授の小伝を読んでみましたが苦労が実に多い。
引き寄せるものなのか、自らそういうものに突っ込んでいくのかとも思ってしまいますが幼少期にどう育つかによるのでしょうか。
突っ込んでいけば苦労が絶えないのは仕方ないことですがそれには公の心をもつことが必要だと思います。
公の心か。
なるほど。自分で納得したパターンです。