惻隠・羞悪・辞譲・是非の心①|2月20日のことです。
惻隠・羞悪・辞譲・是非の心①
惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は智の端なり。人の是の四端あるや、猶ほ其の四端あるがごときなり。是の四端ありて自ら能はずと謂う者は、自ら賊ふ者なり。其の君能はずと謂う者は、其の君を賊ふ者なり。(公孫丑上六章)
そくいんのこころはじんおはじめなり。しゅうおのこころはぎのはじめなり。じじょうのこころはれいのはじめなり。ぜひのこころはちのはじめなり。ひとのこのしたんあるや、なほそのしたんあるがごときなり。このしたんありてみずからあたわずというものは、みずからそこなうものなり。そのきみあたわずというものは、そのきみをそこなうものなり。(こうそんいかみろくしょう)
【訳】
憐れみの心は仁の芽生えである。悪を恥じ、にくむ心は義の芽生えである。譲り合う心は礼の芽生えである。善し悪しを見分ける心は智の芽生えである。人間にこの仁義礼智の芽生えが生来備わっていることは、ちょうど四本の手足が生まれながらに備わっていることと同じである。それなのに、自分にはとても(仁義礼智という)立派なことはできそうにもないと、最初からあきらめるのは、己を見くびる者というものである。また、我が主君にはとても立派な政治など思いもよらないこととして、最初から(よき仁政を)お勧めしようともしないのは、主君を見くびる者というものである。
2月21日の孟子一日一言の言葉です。
生まれながらにもっているもの。
仁義礼智。
これをあきらめずに頑張るしかない。
人として元々もっているのにどうして人はあきらめるのか。
あたりまえことがなぜできないのか。
意識することが足りないから忘れるんでしょうね。
忘れてはいけないものです。
明日も一日がんばります。