自修の決心
Release: 2022/11/10 Update: 2022/11/10
自修の決心
真の修身科は、いつも申すように、自分の一生の志を立てることが根本です。つまり自分の生涯を貫く志を打ち立てるということです。人間も自己を修めないことには、真の人物になることはできません。このことに痛感して、自修の決心を打ち立てる時、そこに初めて真の修身科が始まるのです。【173】
#修身教授録一日一言 #森信三 #毎日投稿 #日常 #毎日ブログ #毎日更新
なんでも深く考えることが大切なんだと思います。
しかし、その根本は仕事でありそのために様々なことを身に付けていくことが必要なんだと感じます。
とにかく、私というようなお人よしの場合はなんでも引き受け出来なくなるような状態までになって、人のせいにしてしますうというような側面があるわけです。
そうした自身を修めないことにはどうにもならないわけです。
そのお人よしといような部分も考えてみると自己保身のような部分があるのです。
何かを貫いてみようと様々なことを継続しているうちに時間もなくなっていくわけですが、やることはとても多い。
そこに感謝の念がおきてこないと人間として問題ありだと思うのです。
役に立たせてもらっているという境地にまではまだまだいきません。
関連コンテンツ
階段を登る工夫②さりげなく この辺の趣が分からなくては、その人の人生もまだ本格的に軌道に乗ったとは言えないでしょう。そこでまたお互い人間は、逆境の時でも、はたの人から見て、苦しそうに過ごすものではない…
齢を尊ぶ 松陰先生は、人間にして爵の尊さを知って得の尊さを知らないものは、その愚かなことはいうまでもないが、しかし徳の尊さを知って齢の尊ぶべきを知らないものは、未だ真の人物とは言いがたいということを、…
老木の味わい 私は老木を見ることが好きであります。鬱然たる老木の姿に接する毎に私は、そこに完成せられた人間の内面的な消息を、まざまざと形の上に見る思いがするわけです。同時にまた、自分も年老…
職責を通して道を体得する われわれの国家社会に対する努めは、どこまでもその職分を通して行われる外ないわけですが、同時にまた他面、このような考えに対しては、いかなる人間でも、ほとんど例外なく、何らかの職…
真の道徳修養というものは、意気地なしになるどころか、それとは正反対に、最もたくましい人間になることだと言ってよいでしょう。すなわちいかなる艱難辛苦に会おうとも、従容として人たる道を踏み外さないばかりか…