第四十七夜 神・儒・仏の根本は同じ

鐘には鐘の音があり、鼓には鼓の音があり、また笛には笛の音がる。音はそれぞれ違うが、音であることは同じだ。ただ物にふれての響きが異なっているだけなんだ。
これを別々の音であると思うのを仏教では迷いという。そして音であることは変わりはなく、がんらい一つのもんだとみるのを悟りというんんだ。そういうものの、これをことごとく別音に聞き、さらに鐘の音をこまかく幾つも聞き分けねば、五音六律の区別がかわらないから、調楽というこのはできないんだ。
水も朱の墨をすれば赤くなり、藍を混ぜれば青くなるが、いったん地に戻せばもとの清水になる。音は空であって、打てば響き、打たなけりゃ鳴りやむ、音が空に消えるのは、打たれた響きが尽きたからなんだ。
だから神とか儒とか仏とかいっても、本来は一つなんだ。一つの水を酒屋では酒といい、酢屋では酢というような違いだけのもんなんだよ。(一二四)
鐘の音、鼓の音、笛の音──響きは違えど、すべて音であることに変わりはない。二宮翁はこのことを通して、私たちが日常で区別しているあらゆるものが、実は一つであると説く。
仏教でいう悟りとは、この「違いの奥にある一つ」を知ることだという。しかし同時に、調楽のためには音の違いを聞き分けねばならない。つまり、私たちは「一つ」であることと「違う」ことを、両方見極めながら生きているのだ。
経営も同じだろう。社員も取引先も家族も、立場や役割は違えど、同じ一つの世界を生きる存在。同じであり、異なる。どちらかに偏るのではなく、その両方を見渡す視野が必要だと感じる。
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