第四十三夜 自我を捨て道理を悟る
心が狭く、ちぢこまっていると真の道理を見抜くことはできないんだ。 世界は広いから心もつねに広くもたねばいけないな。しかしその広い世界も、おのれといい、我というものをその中に置いて見るようになると、 ・・・
心が狭く、ちぢこまっていると真の道理を見抜くことはできないんだ。 世界は広いから心もつねに広くもたねばいけないな。しかしその広い世界も、おのれといい、我というものをその中に置いて見るようになると、 ・・・
世の中には、もともと吉凶、禍福、苦楽、生滅という区別はない。このことは、ワシが示した一円図(因果循環をあらわす丸の字)のようなもんだな。 それなのに、現実に吉凶禍福などがあるのは、中間におのれを置い ・・・
人から見て、最も清浄だと思っている米も、その米の立ちから見れば糞尿こそ最上無類にいいものと思っていることだろう。これもまた循環の理によるものなんだよ。(一五四) 人から見れば、米は最も清らかな食物であ ・・・
「増えた」「減った」と、世の中は日々の数字の浮き沈みに一喜一憂する。しかしそれは、器に入れた水が傾きによって片方に集まるようなもので、全体を見れば、実のところ何も増えてはいない。 二宮翁は、こうした見 ・・・
仏教では「諸行無常」ということをいうね。 この世で行われるすべてのものはみな常なきものだ。それを常にあるものだと見るのは迷いなんだぞ。 お前たちの命やからだも皆そうだ。長短、遅速はあるかもしれない ・・・
芭蕉の句に 古池や蛙とびこむ水のおと というのがあるが、この句の「おと」というのは、ただの音と聞いてはいかんよ。 この音は、有の世界から無の世界に入るときの音と悟るべきなんだ。木が折れるとき ・・・
儒教では、「太極」「無極」という言葉があるが、人間の考えの及ぶにを太極といい、及ばないのを無極といっただけなんだ。 考えが及ばないからといって、ないわけではない。 海の遠いところには波がないよう ・・・
学者はみな『大学』は三網領というけれど、前にも話したように、(第三十五夜)、至善に止まるの「至善」というものがどんなものか明らかでないのだから、実は二網領とすべきではないか、と考えたんだ。 なぜな ・・・
儒教では「至善に止まる」(善の極致に達し、そこを離れない)といい、仏教では「衆善奉行」(いろいろな善を行う)という。 しかしその善というものが、いったいどうゆうものか確かでないから、人々は善を行おう ・・・
善悪の理屈ははなはだむずかしいもんだ。がんらいは、善と悪というのはないんだよ。 善をいうから他方に悪というのができてくるんだ。善悪は人間の考えからできたもんで、人道上のもんなんだ。だから人間がいなけ ・・・