同・独|12月22日のことです。
同・独
膾炙は同じくする所なり、羊棗は独りする所なり。名を諱みて姓を諱まず。姓は同じくする所なり、名は独りする所なり。(尽心下三十六章)
かいしゃくはおなじくするところなり、ようそうはひとりするところなり。なをいみてせいをいまず。せいはおなじくするとこなり、なはひとりするところなり。(じんしんしもさんじゅろくしょう)
【訳】
膾(なまず)や焼肉は誰でも好きな食べ物である。しかし、羊棗は亡き父がけが好きな食べ物であった。たとえば、君主や父親の名をはばかってこれを口にしない。しかし、その姓は方ははばからない。それは、姓は一族皆共通のものだが、名はその人だけに限られたものだからである。
〇松陰は、「姓は共通のものであり、名は独自のものである」という話から国の在り方に関する論に話を進め、「道は天下公共のものであるから、孟子のいう同(共通のもの)であり、国の在り方は国家がその歴史の中から生み出してきた特有なものであるから、孟子のいう独(独自のもの)である。五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)は天下の同である。しかし、我が国の君臣の義が万国にすぐれていることは、我が国の独である」と記している。
12月22日、孟子一日一言の言葉です。
日本という国の在り方は独自のもの。
実際、日本人でいるとそういうことには気づかないものです。
天下の同ということを考えた時、一般的な道徳というのは普遍的なものであり、だれもが納得するものです。
あたりまえが独自のものである可能性もありますので客観的なものの見方が必要ですね。
今日も一日がんばります。