無一物になっても|2月17日のことです。
Release: 2018/02/17 Update: 2019/01/12
仏教の修行に出家して行脚、托鉢するのは、すべての物質を捨て欲望をはなれたとき、人は自然に養われるもの、そこにかえって自由の天地がうち開けることを、悟るためであろう。
昔の修験の行者が、山に寝、野に伏したのも、この境地を得るためであった。
たとえ無一物になっても、人は必ず自然のふところにいだかれて、生かされてゆくものである。何を苦しんで、生きることにいらぬ心をつかうのであろうか。
丸山敏雄一日一話(幸せになるための366話)、2月17日の言葉です。
何も無くなっても生きていけるという究極の境地を感じることは普通の人間にはできませんね。
しかし、日々の生活の中でいろいろあるのもたしかなことです。
いいことばかりではありませんね。
そんな時には、すべてを失っても自然は人を生かす方向に向くことを忘れないようにしなければなりませんね。
今日一日朗らかに安らかに喜んで進んで働きます。
関連コンテンツ
成就の秘訣 「成就の秘訣」、それは別に変ったことがあるのではない。思い立ったらやめない、出来上がるまで止めないということである。 どうしたら、続けることが出来るのであろうか。続けるといっても、実は、繰…
世にただ働きはない 世にただ働きはない。人も気づかぬかげで働いても、それは消え去るものではない。金銭・物質は出せば無くなると考えるのも、錯覚である。喜んで出したものは、必ず何倍かになって帰って来る。…
受験合格のコツ まずは目的を確立することであります。そうして勉強する。「その学校に入るんだぞ」、と肚をきめる。 はっきりと肚を決めないから、できぬのです。必ずやる、決める。肚をきめるから、ちっとも動揺…
正しい心で ツバメは春きて、軒端に巣を作り、子を育てて、秋には南に飛んでいく。ミツバチは一団の社会を作って、けんかもしない。どのツバメは不幸でどのミツバチは幸福ということはない。 そうした中に、人間の…
清愛 私は、実は修学のため遠く遊んで、母の死にあっていない。 ことあって独居沈思の永い閑居を得たとき、これまで父母に対して重ねた不孝、自ずからにして胸つぶれ、涙さん然として止めがたい。ただ壁に向かって…