無一物になっても|2月17日のことです。

Release: 2018/02/17 Update: 2019/01/12

仏教の修行に出家して行脚、托鉢するのは、すべての物質を捨て欲望をはなれたとき、人は自然に養われるもの、そこにかえって自由の天地がうち開けることを、悟るためであろう。
昔の修験の行者が、山に寝、野に伏したのも、この境地を得るためであった。
たとえ無一物になっても、人は必ず自然のふところにいだかれて、生かされてゆくものである。何を苦しんで、生きることにいらぬ心をつかうのであろうか。

丸山敏雄一日一話(幸せになるための366話)、2月17日の言葉です。

何も無くなっても生きていけるという究極の境地を感じることは普通の人間にはできませんね。

しかし、日々の生活の中でいろいろあるのもたしかなことです。

いいことばかりではありませんね。

そんな時には、すべてを失っても自然は人を生かす方向に向くことを忘れないようにしなければなりませんね。

今日一日朗らかに安らかに喜んで進んで働きます。

HOME


関連コンテンツ


コメントはお気軽にどうぞ

メールアドレスは公開されません。
また、* が付いている欄は必須項目ですので、必ずご記入をお願いします。

内容に問題なければ、下記の「コメントを送信する」ボタンを押してください。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください